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小田原市大工町の大工の由来と建築紛争の裁判

小田原市栄町は大工町という地名だった

現在の小田原市栄町1丁目はかつて大工町と呼ばれていました。北条氏全盛の頃、小田原城の築城のため、建築関係の職人が城下に集められ、街域を形成していたからです。

小田原城の城下だった今の小田原駅南口の商店街・観光エリアが大工町でしたが、他県の有名なお城のある自治体には「大工町」はけっこう存在しています。

大工町 - Wikipedia

小田原は、城を築くことの他に東海道の重要な宿場町、小田原宿という交通の要所でもあったため、職人や商人の仕事が溢れていたようです。

町の前に職種名がつくのは、同業者が固まって一つの商売をするほうが資材の調達などで楽だったためです。鍛治町や紺屋町市場町なんかもその例といえます。

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小田原城落成後は組織的に建築仕事する必要がなくなり、個人の武家屋敷などの改築仕事を取ったり、大工町の中で同業者向けの商いをやったり、住民の業態が多様化しました。

大工と少工、番匠などの建築職種名の起源

大工 - Wikipedia

大工という職種名は、奈良時代は官僚の肩書きだったそうです。大工の「工」が今では「匠」と書かれる「たくみ」という技術者の一般的な呼び名だったようです。

それが官僚職としての「工(たくみ)」になって、工職の上下によって、「大工」と「少工」に別れ、大工は少工を束ねる監理者の立場だったそうです。

ちなみに「意匠(デザイン)」という言葉は、この建築技術者である「匠の意(発想・アイデア)」というのが語源と言われています。

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元は官僚名でしたが、寺社や地方士族の力が強くなると、それらの寺社仏閣や邸宅を建築する職人が、俺は大工だ、と名乗り、大工が一般的な建築技術者名として定着したそう。

この頃の大工は、一般の建築職人である「番匠」や瓦師・壁塗り工・畳差などを統率する立場。番匠大工とか畳大工と呼ばれても自分は管理職という感じ。

大工の公共建築工事請負い争奪戦と江戸の裁判

この記事では↓

builders.hateblo.jp

大岡越前や遠山の金さんが、東京地域を静岡県との県境の箱根エリアまで広域に管轄し、建築訴訟の裁判官みたいなことをしてた】

と記しました。

その仕事が、土地境界紛争とか違反建築への勧告とか、今でもある建築トラブルの解決訴訟だったとも。

ところが昔の大工さんで、自ら民事訴訟を提訴して公共事業の請負い権を争うアグレッシブな職人もいて、その裁定をするのも江戸奉行の仕事だったみたいです。

公共事業の建築工事を請負うには強力なコネや根回しが必要なのは昔も今の地方土木業界もいっしょです。

で、一度ゲットした公共工事の建築請負権は相続の対象にもなる世襲的なものだったと。現代の特別な家督相続で続く技術職みたいなところでしょう。

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その相続対象にもなる建築請負工事を、新興の大工グループが寺社の総務部的な坊さんに営業をして横取りすると、古くからの請負大工が訴訟にして争う、てな感じだったようです。

宮大工千年の「手と技」―語りつぎたい、木を生かす日本人の知恵 (祥伝社黄金文庫)